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今 思うこと

投稿日2021/09/16

今 思うこと

東京成徳大学高等学校 野中修也

 

今回の記事は「自分を深める学習:その成立までの道のり」を少々振り返るとともに、現在、野中が「思っていること」を書き留めようと考えペンをとりました。

2002年、本校の「自分を深める学習」の原点を示してくださった明大中野八王子高校の白井先生の授業(倫理:授業内容は研究会のテーマである「自分とは何か?」)を見学させていただきました。その時の感動を今も忘れることができません。授業を拝見している途中から感動で足がブルブルと震え出しました。白井先生は人生の根源的な問いかけを、教材である『日木流奈・月のメッセージ』の言葉に乗せて生徒に発しました。その授業では、生徒が自分の向き合うべき課題としての「いかに生きるか?」に、理性的というよりはむしろ本能的・直観的に向き合っていたように感じました。「生徒の出す答えはどうか?そんなものはどうでもよい!答えなどなくてもよい!大切なのは問いに真摯に向き合うことだ」と思える瞬間でした。今まで私の中にあった「授業観」が消し飛ぶ瞬間だったといっても過言ではありません。

その後、私たちは「自分を深める学習」と授業名を設定し、「教材・資料収集」に奔走しました。試行錯誤を繰り返し生徒の反応に時には助けられ、時には突き放されて現在の形になりました。

当初(2003年)3人(荒井・大池・野中)での取り組みであった授業が、時間が経つに連れ、多くの教師の共感に支えられるようになりました。そして現在は10名の教師によって本校の教育実践3本柱の一角を担う重要なオリジナル授業として、高校1,2年生に週1時間のカリキュラムで行われています。(2021年現在19年目)

しかし、オンライン授業への対応では「自分を深める学習」の場合、「生徒の反応・表情から読み取る想い」が今ひとつ見えにくく、難しさを感じています。

平常の授業や部活動、学校行事は大きく制限され、生徒も教師もやりきれない「不満」を抱えているように感じます。しかしこれを逆手にとって考えるならば、その状態であるからこそ「不要不急とは何?」「エッセンシャルワーカー?エッセンシャルでない仕事なんてあるの?」そして「自分?・人間?・社会?繋がり?」を再考できるチャンスがそこにあるということです。生徒にとっても、私たち教師にとっても・・・

そんな状況下で野中は今何を考えているか?について話したいと思います。

今年、併設大学の「体育実技」を担当することになり、12年ぶりの体育教師復活となりました。大学授業を持つ中で考えたことは「体育とは何か?」についてです。学生時代・教師時代を通して、過去に幾度もこの問題に向き合ってきましたが、久々にそれに向き合う「今・現在」はそれまでとは全く違う視点で「体育」を見つめられたように思います。

ある人の言葉です。「体育の授業が根本のところで目指すべきものって、他人の体に、失礼のない仕方で触れる技術を身につけることだと思うのです

技術習得・体力向上が体育の本質とみられがちですが、それは指導における副次的なものであり、体育の本質(スポーツの本質ではない!)は「他者への信頼感あふれる触れ方」であるという意見に私は驚かされ、そして腑に落ちました。(この体育観は『手の倫理:伊藤亜紗著』に記述あり)体育は唯一「身体」と向き合う教科なのです。

「さわる」のではなく、「触れる」。大きな違いがありますね。解説せずともそのニュアンスは皆さん、お判りでしょう。触れる者と触れられる者、この両者に信頼関係が成立しない限り、「体育の本質」は遂行されません。一歩間違えば犯罪にもなってしまいます。その「信頼」という関係性を基盤にした身体的接触の実践を模索し技術化するのが「体育の本質」であると思います。触覚(触れる)は他の感覚器官〈例えば視覚〉に比べ、下等視されがちですが、実は人間のコミュニケーションにとってとても重要です。

東京パラリンピック・女子マラソンで盲目の道下美里さんが金メダルを獲得しました。注目すべきは伴走者との「共鳴・シンクロ」です。「ロープ」を介して2人は触れ合い、つながっていますが、その関係性は伴走者がランナーをフォローするものではありません。ロープはまるで「神経線維」のように振る舞い、互いの身体の内側で「会話」をかわすかの如く深くつながります。

互いの鼓動・呼吸・身体余裕度・汗・温もり・・あらゆるものを互いにロープ(繋がり・触れ合い)を通して共有・交換します。それがランナーと伴走者の関係性であり、伴走者がランナーに対して優位性を示すものではなく、また信頼関係においても互いがフィフティ・フィフティの関係にあります。それが「シンクロ現象=共鳴」を生み出します。

「見える・見えない」という事実は2人の重要課題ではなくなり、遠く外へと放出されます。その一連の行為・現象が「触れ合う」ということだと思います。

すべての人間同士の「触れあい、つながり、コミュニケーション」は本来、こうあるべきだと思います。他者の身体を「リスク」とみなす現在のコロナ禍での生活様式では「さわる」ことを遠ざけるだけではなく、「触れる・触れられる」ことまでをも遠ざけることになってしまいます。そのことが若い生徒の皆さんの「人間観・人生観」にどれだけ悪影響を与えるか・・想像に堪えません。

生徒皆さんの「青春の3年間」は、言葉では言い表せないほど意味深く濃厚で、その「経験の濃厚さと意味づけ」は私たち大人にはよく理解できないものかもしれません。

その期の「良質な経験」を失ってしまうことは、羅針盤の壊れた行先不明の放浪船のようなものです。

是非、そうならないよう、今は「良質な体験に匹敵するような」文学、エッセイ、哲学、芸術、映画などの作品に触れましょう。「人生とは経験の束である」と言った哲学者がいます。

本当に大切なのはリアリティ溢れる「現実の触れ合い経験」であることを忘れずにいてほしい!と切に願います。

そして経験そのものが「あなたを変え、あなたを作っていく」のではないでしょうか?それを「自分づくり(小説家:遠藤周作の言葉)」と言います。そのことについて「自分を深める学習」で皆さんと議論したいなと思っています。実のある2学期にしましょう!