Blog

ブログ

自分を深める学習 授業報告 1年生(7/17)

投稿日2023/07/17

1年生は7月の末に長野県戸隠(とがくし)というところへ校外学習に出かけます。これは、自分を深める学習の一環で行う行事です。人間はとかく自然と対峙しようとしますが、そうではなく、人間は自然の一部であることは言うまでもありません。ですから自然と対峙するとか共存するとかいうことではなく、私たち人間は否応なく自然とつながっているのです。自然というのは草木のことだけではなく宇宙まで含めて自然ということですから、人間はこの大宇宙の一部ということになります。つながっているのですから自分を大事にするのと同じように大事に思わなければならないでしょう。

 

そのようなことを、都会っ子の生徒諸君に、鉄筋コンクリートの教室の中で話しても、実感としてピンとは来ないものです。

 

ならば、教室を出て、実際に自然豊かな場所へ行ってみよう、そこでなら、私たち教師が何かを言葉で伝えるよりも、自然が雄弁に語ってくれるはず。生徒諸君が肌で感じ取ってくれるはず。というのが戸隠で校外学習を行う理由です。戸隠は自然が豊富なところです。バードウォッチングのメッカと言えばいかに自然豊かであるかお分かりいただけると思います。そのような場所で、キャンプ場でテントに1泊してみる。これが生徒諸君にとってまさにビッグロックとなることは間違いないでしょう。さすがに2泊をキャンプ生活で、というのは慣れない都会っ子には厳しいだろうということで、2泊目はホテル泊という行程の2泊3日です。

 

校外学習に先立って、授業では「葉っぱのフレディ ―いのちの旅―」という題材を扱います。教育学者レオ・バスカーリアが命の尊さ、命の循環を描いた絵本です。

 

 

 

「ぼく 死ぬのが怖いよ。」 とフレディが言いました。

「そのとおりだね。」 とダニエルが答えました。

「まだ経験したことのないことは こわいと思うものだ。 でも考えてごらん。 世界は変化し続けているんだ。 変化しないものはひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。 葉っぱは緑から紅葉して散る。 変化するって自然なことなんだ。 きみは 春が夏になるとき こわかったかい? 緑から紅葉するとき こわくなかったろう? 僕たちも変化しつづけているんだ。 死ぬということも 変わることの一つなのだよ。」

 

変化するって自然なことだと聞いて フレディは少し安心しました。

枝にはもう ダニエルしか残っていません。

 

「この木も死ぬの?」

「いつかは死ぬさ。 でも『いのち』は永遠に生きているのだよ。」 とダニエルは答えました。

 

 

 

「いつかは死ぬのに『いのち』は永遠に生きている」というダニエルのセリフについて考えます。

 

死ぬのに命は永遠に生きる?

どういうこと?

 

生徒諸君に思うことを書いてもらいました。

 

・フレディやダニエルのような個々の「いのち」はなくなっていくけど、フレディで言うと葉っぱでは、落ちてなくなった葉が、時を経て土にかえり、栄養が木に与えられ、また新しい葉が生まれて、一年過ごして、また枯れて、という流れが永遠に消えないから、「『いのち』は永遠に生きる」は、個々の「いのち」ではなく、「いのち」の流れのことだと思った。また、人間でも同じことが言えると思って、人間誰しもいつかは死を迎えるけど、同時に生まれてくる命もあって、「いのち」というものは、どの時代になってもどんな種類でも永遠に繰り返されるもののことだと私は思った。

 

・葉が枯れて落ちたら土に溶けてまた木を育てる力になるように、いのちはずっと新しい姿や形に成り代わっていくことで永遠にいのちは生きていくことができると思う。

 

・個々のいのちとダニエルの言っているいのちは少し意味が違うと思います。個々のいのちはいつか死んでしまうので永遠に生きるわけではないと思います。それに対してダニエルの言っているいのちは1人1人特定の誰かのいのちではなくて、命を大きく考えたときに、誰かが死んでも誰かが生きていたりするから永遠と言ったんだと思います。

 

・例えば、葉が、木が枯れた後、土に還って栄養になって、次の新しく育つ木につながっていって、それが繰り返されていくことを「いのち」は永遠だと言っていると考えました。人間に当てはめてみても、子孫を残して、その子孫がまた子孫を残す。こうやって繰り返されてきて、この先も繰り返すから「いのち」は永遠に生きている。一つの命が次の命につながっているよ、ということを伝えたかったんだろうなと思いました。命→個の命 永遠に生きているいのち→つながっているいのち、受け継がれていくいのち みたいな。

 

・死んでしまったら生き返ることができるわけではないから、「いのち」は永遠に生きているというのはあまりわからなかった。だけど、新しい命からまた新しいのちが生まれるから、大元の「いのち」は永遠なのかなと思った。

 

・一ついのちが尽きても、また違ういのちが生まれて、そのいのちが尽きてもまた違ういのちが生まれるというように、存在は消えてしまってもいのちは循環している。葉っぱは地に落ちて肥料になって新しいのちの一部になるから、いのちが絶えることはない、と思う。

 

・自分自身のいのちは永遠ではなく終わりがあるけど、その一つ一つのいのちをまとめて全体として見ると、いのちは永遠に生きていると思う。また、いのちはなくなるけど、新しいいのちが生まれるから、いのちは永遠だと思う。

 

もちろん選んで掲載していますが、高校1年生でもこのような感覚を持つのです。

 

普通は命というと「個々の命」のことがまず浮かびますが、ここでは「いのち全体」というか「おおもとのいのち」というか、人間であるとか動物であるとか地球上のものであるとかの区別なく全ての命はおおもとから生まれ寿命を全うしたらまたおおもとへ戻っていく、といった循環のことを言っているのです。例えて言うなら、水面に石を投げると水しぶきがあがり、そのしぶき一つひとつは空中を舞った後に元の水面に戻り混ざり合うといったような循環、とでも言うのでしょうか。宙を舞っている間は「一つのしぶき」ですが、水面に戻れば混ざり合い、先ほどのひとしぶきは跡形もなくなり、そして次のしぶきがはねて宙を舞い、また水面に戻って混ざり合う。命とはこの繰り返しなのではないか。だから、私と君はつながっている。私は全てのものとつながっている。私は宇宙ともつながっている。ということになる。

 

このような思いに至るとすれば、それは都会の真ん中で教室の中ではなく、恐らく自然の懐に飛び込んで大地に寝転がったとき、あるいはまるでプラネタリウムを見ているかのような満天の星空を眺めたとき、はたまた、自然の中の舗装されていない歩きにくい道を何時間か歩き、次第に頭の中には次の一歩のことしか考えなくなるような状態を経験した時、なのではないでしょうか。

 

戸隠で行う校外学習は、生徒諸君にこのような瞬間を味わってもらう場です。生徒諸君はやれ虫が嫌だとか、火を起こすのが大変だ、夜が暗くて不便だといった感想を持ち帰ると思います。しかし同時に、空気がおいしかった、景色がきれいだった、鳥の鳴き声が心地よかった、といった感想も持ち帰ると思います。どれもこれもが自然の中での感想です。自分にとって「良い」感想が残ったことが「良い」経験で、「良くない」感想が残るのは「良くない」経験だ、というわけではないのです。そして自然の中での1泊を経験したあと、ほとんどの生徒諸君はご自宅の便利さや保護者の皆様の存在をありがたく思い出します。保護者の皆様は、お子様がそのような経験を通して一回りたくましくなって帰ってくるのを楽しみにお待ちになってください。お帰りになったお子様には、是非、夜空を眺めて何を感じたかお尋ねになってみてください。きっと素敵な親子の時間が流れると思います。

 

自分を深める学習 1年G組担当:神田上巳