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授業報告(2022年12月)
学校では2学期の授業が全て終わり、期末試験も終了したところです。皆様はいかがお過ごしでしょうか。
自分を深める学習の授業では、「考える」ことを重視しています。ところが、授業中に課題を提示してそれについて考えたことを紙に書く時など、早めに「書き終わった」と思しき生徒に、「もうおしまいですか?」と尋ねると、「はい、もう考えました」と返ってくる。どうやら、生徒諸君の思う「考える」という作業は、私たちがやって欲しい作業とは少し異なっているようです。例えば数学や英語の問題の正解を探すことが「考える」ことだったり、こちらが自分を深める学習の授業中に提示することを一回でも頭に浮かべてみることが「考える」ことだったりするのでしょう。
若者の読書離れが言われるようになって久しいですが、文章を読むよりも画像や動画を見てストーリーを理解するような習慣がその理由とは無関係ではないかもしれません。あるいは、小さい頃から塾通いで、テストで高得点を取ること、つまり短時間で多くの問題に正解することを求められてきたこともひょっとすると関係があるのでしょう。
「考える」という作業は、文章から状況を想像してみる作業や、解答そのものがあるのかどうかを探る作業をも含むのではないかと思っています。もっと、堂々巡りで嫌になってくる作業なのかもしれません。大変エネルギーを必要とするし、ものすごく忍耐力を必要とします。一回頭に浮かべればそれで終わりでもなく、数時間取り組めばそれで終わりでもない。ことあるごとに頭に浮かべ前回と同じ堂々巡りをまた繰り返し、それでも納得がいかずに頭に浮かべる。意識しなくても浮かんでくる。こういう作業も「考える」ことなのではないかと思います。自分を深める学習の授業ではそういう意味の「考える」ことをしてもらいたいと思っています。もちろん50分の授業が終わったらそこで思考を止めるのではなく、授業後も折に触れて頭に浮かんでくるような、そんな経験を多くの生徒にして欲しいと思っています。
よく「答えが出なくても考えることそのものに意味がある」と私たちは生徒に説明しています。全員と言っていいくらいの生徒が、その通りだという表情をします。いや、保護者の方々にお話ししても同じ反応が返ってくると思います。「その通り。考えることそのものに意味がある。」と。私も長年そう言ってきましたし、そう思っていました。私自身が「考えることに意味がある」という台詞をそれ以上考えなかったわけですね。しかし最近、「どんな意味があるのか」ということを考えるようになってきました。哲学の諸先生方に言わせれば当たり前のことかもしれませんし、それはちょっと違うなということなのかもしれません。しかし最近の私は「考えることの意味」というのは「これ以上いくら考えても先には絶対に進まないと思っていたことが少し進むこと」ではないかと思い始めています。
それはどういうことかと言うと、何度も何度も同じ堂々巡りを繰り返すということは、「これ以上このことを考えても先には進まない」と思っていることを敢えて考えるのですから、どうにか少しでも先に進めることとができないかと思っているわけです。そういう感覚を持って繰り返し考えていると、それまで気づかなかった小さなことにも気づくことがある。その小さなことをきっかけに、ある日突然、これ以上進まないと思っていたことが少し進む。もちろん少し進んだところでまたそこまでの堂々巡りが始まるわけですが、こういうことの繰り返しが色々な事への気づきを増やしそれにより自分が肥えることが、考えることの意味なのではないかと思うようになったのです。
もちろん、そのような悠長なことを言ってはいられないことも現代人には多くあり、即答を迫られることや、すぐに次の問題に取り掛からなければならないことも少なくありません。いや、そちらの方が日常でしょう。しかし、人間は「じっくりと丁寧に考える」時間が必要だと思います。四六時中考えるのではなく、ふとした時に頭に浮かぶことを時間をかけて何日でも、何か月でも、何年でもじっくりと丁寧に考える。
私たちは生徒諸君にこのような経験をして欲しく、この授業を行っています。冒頭の「もう考えました」という台詞の可笑しさに、若い生徒諸君が気付くのはいつでしょうか。
自分を深める学習 1年C組・2年C組・2年J組担当:神田上巳